現代の日本語では「予」は「あらかじめ」、「預」は「あずかる」「あずける」と明確に使い分けられているが、そのルールを過去にまでさかのぼって適用した結果、下のツイートのような誤解が蔓延した。
「豫」「預」「予」は互いに異体字の関係にある。いずれも「あらかじめ」という意味であって、どの字であろうと意味に違いはない。「豫言」「預言」「予言」はいずれも「あらかじめ何かを言う」「あらかじめ言ったこと」という意味である。「豫」が正字。中国では今も昔ももっぱら「預」を用いる。「予」は日本の戦後略字、あるいはそれ以前からの手書き字、あるいは「余」と同じく「私」の意である(餘談ではあるが「余」と「餘」とは本来別の字である)。
異体字というのは単なるデザインの違いであって、たとえば全然別の字であった「芸(ウン)」と「藝(ゲイ)」とを「芸」に一本化したのとはまったく事情が異なる。
予感、予期、予見、予行、予告といった言葉はすべて「あらかじめ」+「動詞」という組み立てである。異体字である「豫」「預」をあてても同じ意味である。
日本語訳聖書に出てくる「預言」ももちろん「あらかじめ何かを言う」「あらかじめ言った何か」という意味であって、「言葉をあずかる」「あずかった言葉」ではない。
米國聖書會社が明治初期に出した日本語訳聖書は漢訳にレ点、読み、送りかななどをつけただけのものである。そのなかに「預言者」が出てくる。この漢訳は、原典を訳したものではなく英訳を漢訳したものである。英訳は「prophet」である。proは「あらかじめ」の意であり、phetはspeakerの意であり、あわせて「あらかじめ何かを言う者」という意味である。同じようにpredictor (pre + dictor)もforeteller (fore + teller)も「あらかじめ何かを言う者」という意味である。その後の日本語訳も漢訳「預言」をそのまま借用した。日本語の「豫言」「預言」「予言」と同じ意味なのであるから当然である。
確かに原典までさかのぼれば「ナビー」には「神託を受けた人」のような意味がなくもないので、第2次大戦後、無理矢理「預言」を「言葉をあずかる」「あずかった言葉」などと訓読したようであるが、むちゃくちゃである。現代にしか通用しない用法を過去の文章にあてはめて読み換えてはならない。ちなみに中国では「prophet」の訳を「預言者」から「先知」に変えた。このことからも「預言」に「言葉をあずかる」などという解釈のあり得ないことが分かる。
名訳として知られる、大正時代に訳された日本語訳聖書では、「預」の訓読はすべて「あらかじめ」である。
『言海』 には下のようにある。「豫」「預」が異体字の関係にあることが分かる。さらに、「アラカジメ」と訓読することから「予」も異体字であることが分かる。
よ げん〔名〕豫言 預メ推シ量リテ言フヿ。 (アラカジメ オシハカリテ イフ コト)
では「預金(ヨキン)」の「預(ヨ)」は「あずかる」「あずける」ではないのかという疑問が湧くが、(略)
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参考:
- 同期の桜 (文春文庫 た 38-9), pp.115-124
- お言葉ですが…第11巻, pp.250-298